感情を取り戻すために
自分らしく生きるための「Love Myself作戦❣」
私の場合、心理学の勉強をしていく上で、テキストの言葉や理屈は解っていても落とし込めていないものが沢山ありました。
頭では解っているけど、いざ自分の事となると簡単にはそう思えないし出来ない事。
こういったもののひとつひとつを私の中の気付きと共にシェアしたいと思います。
今回は「感情」についてのお話しです。
目次
「感情にフタをする」とは
今回このお話をしようと思ったのは、結論から言うと、「感情は感じていい」むしろ「感じきる事が大事」という事。
そして、感情にフタをする事で起こる色々な生きづらさや、それをする事で得られるメリットを知ってほしいと思ったからです。
人の感情の代表と言えば、「喜」「怒」「哀」「楽」がありますよね。
「笑う」「怒る」「悲しむ」「楽しむ(喜ぶ)」
これって本来自分でコントロール出来る事ではなく、自然と湧きおこる感情のはずです。
私は感情を表すのが苦手。というよりも、感情が湧いてきそうになると止めてしまう癖が付いているようなイメージ。
なぜか特に人前では無表情でいる事が多かったように思います。
怖いですよね(笑)
子供のように無邪気に笑ったり喜びを表現する人、所かまわず泣き叫ぶ人を見ながら、羨ましくもありましたが、その様子は私にとって凄く不思議で違和感を感じる光景だったんです。
それと同時にちょっとイラっとしたものでした。(後にこれが投影である事を知りました)
「ホントに自然にあんな表現が出てくるの?」「恥ずかしくないの?」「パフォーマンスじゃないの?」といろいろな疑問が頭に浮かびました。
そして逆に今まで当たり前だった自分の感情に疑問を持つようになり、客観的に自分の行動を考えてみると、何時も私の中にもうひとりの自分が居るような気がしてきました。
手を叩きながら大口を開けて笑う自分が、無表情で口角だけを上げて笑う着ぐるみを着ているような状態。
それに気付いた時はちょっとショックでした。
なぜ感情を表現しなくなったのか
あくまでも私の場合で、一例に過ぎませんが、幼少期から「何笑ってるん?」「その顔何?」「なんで泣いてるん?」「あんたは気楽やな」というような、様々な感情による表現を否定されたり、それを人前で表現する事はいけない事のような反応が返ってきていたからかもしれません。
幼少期では家族がその対象になる事が多く、特に親がそういった反応をすると、脳は笑っちゃダメ、怒っちゃダメ、泣いちゃダメ、喜んじゃダメと刷り込みを始め、しまいには何も感じないように、目の前で起こっている事をまるでテレビでも見ているかのように、上の空で見ているような感覚にしてしまいました。
それが当たり前の状態になるまでに、そんなに時間はかかりませんでした。
もうひとつは、いつの間にか恥ずかしい自分、格好悪い自分、腹黒い自分、浮かれてる自分を許せなくなっていた事。
これも上記の事も含め、理想の子供であることを望んだ親から事あるごとに指摘を受ける事で、ダメな事として認識してしまった結果でしょう。
これが生きづらさに繋がるとは夢にも思っていませんでした。
感情にフタをするとどんなメリットがあるの?
これはズバリ生き残るための手段。
私は感情、表情を無くす事で親からの否定の言葉を聞く事を避けたのかもしれませんね。
親に嫌われないように、嫌われてしまったら生きていけないと無意識に思い込んでしまっている状態になったようです。
メリットという表現が正しいかどうかわかりませんが、自分の身を守るためですね。
親には子供が嫌いで否定的な言葉を発しているという認識は無いでしょう。
その時の気分や状況、親が子供に誰かを投影してしまっているのかもしれません。
そんな事は子供に判る訳もなく、ただただ怒られないように、嫌われないように必死なんですね。
小さい子供が親から嫌われる=見捨てられる・去られるという事は「死」を意味するからです。
そして唯一の安全な場所であった学校でも嫌われないようにとった手段が、残念ながら感情を出さない事だったんです。
よくクラスメイトや先生に「何を考えてるのかわからない」と言われていましたね。
嫌われない事には成功しましたが、近寄る人も少ないというなんとも悲惨な学生時代でした(-_-)
「感情」がわからない
そもそも私がこの問題に向き合うきっかけとなったのは、人の死や別れに対して執着や悲しみを感じないという事をおかしいと感じていたからです。
友達やお世話になった人、最後には自身の母親に対しても亡くなった時に、驚きは多少ありましたが悲しいとは思いませんでした。
それまでは、感情表現に乏しいとは感じていましたが、あくまでもそれくらいの気持ちしか動いていないという認識でした。
人が亡くなる事は当たり前の事で、自分には自然な事として受け入れているんだ。だから悲しくないし、あの世でまた会えるくらいに思っていました。
これが人の死を悲しまない理由だと。
実際、葬儀や棺桶の中で眠る故人を見ても泣く事もなく、何か形式的な儀式をしているような気分でした。
これも若い時ならまだいいんですが、歳を重ねるうちに「私って何か変?」と思うようになっていったんです。
独りでドラマや映画を見ていて人が亡くなるとボロボロ泣けるのに、現実の場面では泣かない、悲しくないという事に違和感を感じるようになりました。
これは、現実の死に対して心が全力で抵抗しているんじゃないかと考えるようになったんです。
「無かったことにしておこう」みたいな感じです。
まるでそこに私は居ないような感覚をいつも感じていたし、記憶も薄いんですよね。
そう考えると、いろんな感情に対してもこの「無かった事にしよう」の作用が働いているような気がします。
そこにいるのは誰?
本当は今私は何を感じているの?
それくらい感情に結びつく場面からトリップするような状態が続いたんです。
感情を迎えに行く
これはマズいと感じた私はすぐにある心理セッションを受ける事にしました。
ここでは私の最も苦手とする「その時どう感じた?」のオンパレード。
何か話すたびにこの質問です。
当然何も感じる事がないので、「何も感じません」ばかり言ってました。
そして質問に対して的確な答えをせずに、関係はあるけど他の話に持っていくような感じだったんです。
ここで先生に言われたことは、
全てにおいて思考に上げてしまっている。
鉄のガードで触れられたくない所を守っているから、心や感情・感覚にアクセスさせてもらえない。
単純に「触れられたくない所」に興味が湧きましたが、自分でもよくわかりません。
その日からトレーニングを始める事にしました。
感情を感じきるトレーニング
何をしている時も感情・感覚を確認する事。
食事をしている時の「キレイ!」「美味しい!」「楽しい!」「のど越しがいい!」等
ニュースを見て「ありえへん!」「すごい!」「可哀想」「大変!」等
人と話す時の「こんな言い方されたくない!」「かわいい!」「嬉しい!」「さみしい」等
このようにどんな事でも感じる事に許可はいりません。permission to feel!
あ、このフレーズ❣ 大好きなBTSの「Permission to dance」と同じ~♪
失礼しました(^-^;
そして、私の場合は「賢い大人の私が幼い私が出てくるのを必死で止めている」らしいので、幼い私の方に常に問いかけをするというものです。
子供のような手足をジタバタさせて起こっている感覚でもいい。お腹を抱えてバカ笑いしている感覚でもいい。寂しくて必死で誰かを探している感覚でもいい。飛び上がったり走り回ってヤッターと叫ぶ感覚でもいい。
今も大事ですが、過去にどう思っていたのかという事もちょこちょこ挟みながら感情の解放をする。
怒りを感じたらクッションのようなものを抱えてボコる(笑)
泣きそうになったら思いっきりそっちに入り込んで泣く。
楽しかったり嬉しかった時は、踊りたければ踊り、飛び上がりたければ飛び上がる。
そして声に出して喜びを表現する。
こうして感じきる事で過去の怒りや悲しみに関しては消化されるそうです。
過去に遡って相手を責めるのは、その時はスッキリするかもしれませんが、根本解決にはならないといいます。
もちろんこれはトレーニングだし、大人なので人前で出来る事と出来ない事はありますが・・・
感情は勝手に出て来るもの
ここで言いたい事は、感情は自然に湧きおこるもので、そこにNOは無いという事です。
この感情を持つ事は悪い事、この感情は嫌われるものという思いがそもそもおかしいのです。
これこそが、自分が作り出した他者の価値観の刷り込みで、無意識に自分に仮面を被せる原因となっているんです。
そんなところから自己肯定感の低さもくるのかもしれません。
感情は自分自身しか感じる事の出来ないもので、人がジャッジするものでもありません。
ましてや、自分で自分の感情をジャッジしてしまうのは悲しい事ですよね。
どんな感情も自分のものだし、自分の一部であるという事を認めてあげることから自分を大切に思う心が育まれると思います。
良くないと感じていた感情が浮かんだ時は、「あ~、今こう感じてるんや」「なんでそう感じるんかな?」と自問自答してみると意外と客観視できたりします。
まとめ
感情はどんな感情も良いも悪いも無いという事を是非覚えておいて欲しいと思います。
そして、自分を傷つけたりジャッジする事に対しては怒りを持っても良いということ。
ケンカを推奨しているのではなく、自尊心を守るために怒りの感情を持つ事自体は健全であるという事です。
大人なので人前で暴れるより、クッションやぬいぐるみに向かって怒りをぶつけて発散させる事が出来れば尚良いですね。
どうしても相手に自分の思いを伝えたい場合は、あくまでも「貴方は間違っている」というような相手を責める言葉ではなく、「私はこう言われて悲しかった」というようなIメッセージであることが大切です。
これは相手をジャッジする事なく話し合いをするコツです。
自分の感情が自分の物であるのと同様に、相手の感情も相手の物だからです。
そういう意味で自分を大切に扱うという所では怒りの感情は重要なのかもしれません。
言われっぱなしであるのは自分を諦めているという事になりますからね。
失敗や恥ずかしい事の無い人はいないし、ブラックな部分の無い人もいないと思います。
私は格好いい完璧な部分だけを愛するという事を、親から愛し方として受け取ったかもしれませんが、全部あっての自分だと、個性だと思えたらもっと幸福度は上がり、歪んだ価値観を持つ事も無かったのかもしれません。
まだまだ完全にそうなれたとは言い難いですが、そうなれるように感情と向き合っていきたいと思います。
人付き合いに疲れる傾向のある人や、人から嫌われる事にたいする不安の大きい人には特に、どんな自分でも大丈夫だと気付いてほしいです。Love Yourself
そして何より「自己否定」を強化させない方法はこちらです。
「呪いの自己暗示」から「成功へ導く魔法の言葉」へ
失敗や出来なかった時に自分にかける言葉は「Why」ではなく「How」に!
「なぜ」の後に続く言葉は自分を否定する言葉になるからです。
「なぜ私ってこんな事も出来ないの?」「なぜ私は失敗ばかりするの?」
こんな言葉をいつも投げかけていませんか?
残念ながら脳はこういう言葉すぐ取り入れて潜在意識の中にしまい込みます。
そんな時は「どうしたら出来るようになるかな?」「どうしたら失敗しないようになるかな?」という風にする。
そうすると、「出来る」と「失敗しない」という言葉を拾ってくれるし、自分自身もとっても前向きになりますよね。
話が逸れがちですが、私のお伝えしたい事は全部関連しているので何度でも言います!(笑)
喜怒哀楽という感情は人間に与えられた最高のプレゼントだと思います。
そして欠点や短所と呼ばれるものも、人間の基準で判断されただけの何の根拠も無い個性であるという事。
そんなものに振り回されず、自分らしく生きられる方法を模索しましょう。
最後まで読んで頂きありがとうございました。
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